人生は3つの時に分けられる。過去の時と、現在の時と、将来の時である。このうち、われわれが現在過ごしつつある時は短く、将来過ごすであろう時は不確かであるが、過去に過ごした時は確かである。なぜならば、過去は運命がすでにその特権を失っている時であり、またなんぴとの力でも呼び戻されない時だからである。
(中略)
現在はその日その日だけで、しかも瞬間を単位とする。しかし過去の時は、諸君が命じさえすれば、そのことごとくが現れるであろうし、君の好きなように眺めることも引き留めることも勝手である。ただし多忙の人たちには、そうする余裕はない。心配ごとのない平穏な精神は、その生涯のあらゆる部分をあちらこちらと走り回ることが出来る。
しかるに多忙な人々の心は、まるで頚木にでもかけられているように、首を曲げることも後ろを見ることも出来ない。このようにして、彼らの生活は深い底へと消え失せる。たとえて言えば、どんなに多くの水を流し込んでも、それを受け入れ溜めておくものが下にないならば、何の役にも立たない。それと同じく、どんなに多くの時間が与えられても、留まるところが何処にもなく、壊れて穴のあいた心を素通りするのならば、それは無駄なことなのである。(『人生の短さについて』より〔岩波文庫〕)
この記述はローマ帝政の初期という、常に不安が付きまとう時代に生きたストア派の思想家、セネカ(紀元前4頃-後65)によるものである。最後はかつての教え子ネロ帝から自害を命じられたが、約2000年も前の時代にもかかわらず、時間に対する深い洞察や自省による成長の重要さを的確に表現している。
ここで彼が説いていることは過去を踏まえ、それを現在と将来に活かすことの大切さである。彼は説いている。過去を変えることはできないし、変わることはないと。そして過去を振り返らない多忙の人々を『どんなに多くの時間が与えられても、留まるところが何処にもなく、壊れて穴のあいた心を素通りするのならば、それは無駄なことなのである』と表現している。
昨今の風潮として、「過去を振り返らず現在を一生懸命生きる」という考え方が好まれる傾向にあるが、これは過去を悔やむのではなく、未来に対して何をするかを考える、といった観点であり、決して「過去に学ばない」ということではない。
また、「多忙」であることの弊害は、現代人の課題とも共通するものであり、「忙しさ」に言い訳をしながら、結局は貴重な時間を無駄にしてしまっているということであろう。
セネカの説くとおり、変わることのない過去の出来事・経験を活かさなければ、それは愚かであろう。同じ轍を踏むこととなり、成長のない人間となる。そしてそのための時間は誰がつくるのだろうか。自分である。自分の時間をつくることができるのは自分だけなのだから。
セント・ルイス・ビューグルはこう言っている。
― 時間はあっという間に過ぎ去る。だが、忘れてはいけない。その使い方を決めるのはあなただということを。-