ハインリッヒ・シュリーマン(1822-1890)は、ギリシャ神話に登場するトロイアという伝説の都市を発掘したことで知られるドイツの考古学者です。一方で、商社をいくつも設立して成功を収めるなど、商才にも恵まれていました。しかし、シュリーマンの華やかな成功の陰には、人知れぬ努力があったといわれています。
●シュリーマン式語学勉強法
毎週日曜日ともなれば二回も英国教会へ通った。なぜか。授業を受けるとなると金がかかる。教会ならただで英語の勉強ができるからだ。説教に耳を傾けながら、わたしはその一語一語を小声でくりかえした。使い走りに出されるときも、たとえ雨が降っていても、かならず本を一冊手に持っていて、そのうちからなにがしでも暗記した。何も読まないで、郵便局で待っていたことはなかった。こうしてわたしはしだいに記憶力を強め、すでに三か月後には……あらかじめ三回念いりに通読しておけば印刷された英語の散文二〇ページくらいから一語一語まちがいなく暗唱してみせることができた。
スマートフォンはおろか、コピー機やワープロすら存在しない時代のこと。現代とは比べ物にならない不便さの中で、シュリーマンは知恵を絞り、お金がかからず、時間も無駄にせず、確実に外国語をマスターできる勉強法を自分なりに編み出したのです。
ドイツに生まれた彼は、この方法でまず英語を習得した後、半年に1つのペースで、フランス語、オランダ語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語、ロシア語をマスターした、と伝記には記されています。
こうしたことを可能にさせたのは、「何があってもトロイアを発掘する」という明確なビジョンあればこそ。伝説上の都市と考えられていたトロイアを「絶対に実在する」と信じ、自らそれを証明しようとする思いの強さが、言語習得に対する強いモチベーションとなっていたことは想像に難くありません。遺跡の発掘現場では、現地の人や世界中から集まってくる人々と雑多な交渉をこなさねばならず、リーダーシップを発揮するには相応の語学力が不可欠だったからです。
実際、トロイアの遺跡となった場所を発掘する際にも、土地を所有するトルコ人と交渉する必要があったため、わずか半月で洗練されたトルコ語をマスターして相手を驚かせ、見事、交渉を成立させたと、シュリーマン本人が語っています。
ここまで彼を衝き動かしたビジョン、その源となったのは、幼い頃に書物の中で出会ったトロイアの存在でした。私たちのビジョンに関して、故スティーブン・R・コヴィー博士は次のように述べています。
「子どもたちにしろ、ほかの人たちにしろ、彼らが自分自身をどう思い、将来にどんな夢を描くかが、私たち全員の生活の質に大きな影響を及ぼすのである」(『7つの習慣 成功には原則があった!』キングベアー出版)
●ビジョンを達成した者だけが味わえる至福
大急ぎで、わたしはその宝を大きなナイフで掘り出したが、それは最大の労力と、きわめて恐るべき生命の危険なしにはできないことだった。というのは、わたしがその下で掘らねばならない大城壁が、いつわたしの頭上にくずれてくるかもしれなかったからである。しかし、そのどの一つをとってみても、はかりしれない価値を持っている、かくもおびただしいものをまのあたりに見て、わたしは向こう見ずになり、危険など頭になかった。
これは、長年のビジョンをまさに達成した瞬間の描写です。シュリーマンは非力であったため、常に発掘スタッフを雇い、自身は指示を出すことに専念していました。しかし、3年間の発掘活動の末、とうとうトロイアの城壁を発見したそのときだけは別でした。危険を顧みず、自分自身でナイフを手に取ったのです。
功名心が強く、計算高い面があったといわれる彼が、生命のリスクを冒してでも自らの手で行いたかった行動。ビジョンを達成した者だけが味わえる至福の一瞬とは、どのようなものだったのでしょうか。
さて、激動の現代に目を向けると、テクノロジーの進化を受けて、日に日にさまざまな効率化が進み、1人ひとりの業務量も増大の一途を辿っています。こなさなければならないルーティンは少しでも気を抜くと雪だるま式に膨れ上がり、今やサービス残業や休日出勤は当たり前、自分や家族のために使える時間は目減りしていく一方です。
あなた自身のビジョンとはどんなものだったでしょうか。「そんなことをじっくり考える暇なんてない」というのが、多くのビジネス・パーソンの悲鳴にも似た本音なのかもしれません。
しかし、だからこそ、一瞬、足を止めてみる勇気が必要になるのです。自分のビジョンとは何だったのか。その妥当性を検討したり、メンテナンスを行ったり、たっぷり考えを巡らせることにより、予想もしなかった莫大なエネルギーを掘り起こすことができるかもしれません。なぜならビジョンとは、シュリーマンの例に倣うまでもなく、自分自身を走らせるエンジンそのもの、人生における情熱の源なのですから。
(参考:『シュリーマン トロイア発掘者の生涯』、エミール・ルートヴィヒ著、秋山英夫訳、白水社)