岡倉天心(1863-1913)は、小中高いずれの教科書にも必ず載っているといってもいいほど、近代日本の美術史に大きく貢献した人物です。
商人の息子として幼少期を横浜で過ごし、西洋美術や英語に親しみのあった天心は、長じて東京大学(東京開成所)に進学すると、同大学の「お雇い外国人」であったアーネスト・フェノロサと出会い、彼とともに日本文化財・美術品の保護に努めるようになります。その後、美術史学研究の開拓者として、また海外に対する日本美術の啓蒙者として、後世に多大な功績を残しました。
東京藝術大学(東京美術学校)の設立にも大きくかかわるなど、後進の育成にも尽力した天心を衝き動かした原点とは、どのようなものだったのでしょうか。
●古美術の真価に気づかされる
フェノロサの供をして骨董屋巡りをするうちに、覚三(編注:岡倉点心の本名)は古美術の真価に気づかされ、自らもその魅力に圧倒されていった。覚三は通訳ばかりではなく古書の翻訳も任されるようになった。そうしたことを続ける中で覚三は古美術が新時代の波の中で無残に放置され、見捨てられていることを知るのだった。新しい世はひたすら西欧をみつめ、追いつけ追い越せとやっきになっていた。日本古来の美術などはゴミのように扱われていたのだった。自国の持っていたものはすべてくだらないものとして排斥しなければ先に進めない心境に陥っていたのがこの時代だった。
東京大学の講師としてフェノロサが来日したのは、明治維新の只中にある1878年のことでした。前年には西南戦争が起きており、フェノロサの残した文章によれば、都市部でも「放歌、立小便、裸体」が散見された(『フェノロサと明治文化』、六芸書房)とあり、国全体が過渡期の混乱状態にあったようです。
この時代、日本の美術品・骨董品の数多くが海外に流出しました。引用にもあるように、新たな時代を迎えるにあたって、知識層が「日本らしさ」を清算しようと極端な動きに出るのも、心の動き方として無理からぬことだったのかもしれません。当時の人々が、自国の伝統や文化を負の遺産であると軽視・排斥したために、後世の研究者が嘆く羽目になるという展開は、いつの時代にも繰り返される事象の一つといえるでしょう。
しかし、フェノロサと天心は周囲や時代の空気に流されることなく、地道に日本美術の価値を見直し、再評価を進めていきました。その結果、彼らは後世、日本文化財の保護に大きく貢献したと評価されるに至ります。
このように、そのときは正しい見方をしているように思えても、あとから冷静に振り返ってみると、実は誤った捉え方だったと気づかされることはままあるものです。それは美術などの目利きに限ったことではなく、コミュニケーションにおいても頻発することといえるでしょう。
「7つの習慣」を提唱した故スティーブン・R・コヴィー博士は、自著『完訳 7つの習慣 人格主義の回復』(キングベアー出版)において次のように述べています。
「自分は物事をあるがままに見ている、自分は客観的な人間だ、と誰しも思うものである。しかし実際はそうではない。私たちは世界をあるがままに見ているのではなく、自分なりに見ているのである。条件づけられた自分の目を通して見るのだ」
企業に目を移すと、昨今ではダイバーシティ尊重の動きが急速に拡大しています。天心やフェロノサの時代と同じく、今は過渡期の混乱にあるといってもよい状況で、数十年後、我々のパラダイムを振り返ったとき、「誤っていた」とはっきりわかるものも少なくないはずです。
特定の方向に向けて全体が流されがちなとき、少しでも見方に違和感を覚えるのであれば、その是非を自分なりに疑ってみることは意味のあることだといえるでしょう。
●日本人としての矜持を保つ
その後のことだ。金子賢太郎伯爵がボストンのガードナー夫人の美術館の話を聞いて、自分もぜひお訪ねしたいと申し込んできた。ガードナー夫人は「待ってました」とばかりに、こういう返事を出した。
「フェンウェイ・コートの美術館はイタリア風俗を移して、イタリアに敬意を表しているので、あなた様もぜひ日本の服装でおいでくださいませ。喜んであなた様のおいでをお待ちしております」
金子は燕尾服は持っていたが、紋付袴は持っていなかった。彼は欠席するしかなかったのだった。
天心は幼い頃に身につけた流暢な英語力も手伝い、有名な美術評論家として米国を中心に世界中に活躍の場を広げました。随所で講演し大盛況でしたが、服装は常に紋付袴。これは自国の服装を大切にしたいという天心の強い意志によるもので、決して燕尾服は着なかったといいます。
そんな中、1904年に米国ミズーリ州でセントルイス万博が開催され、金子賢太郎伯爵が当地で催したレセプションに天心も招待されましたが、参加することはできませんでした。「燕尾服着用」というドレスコードがあったためです。
しかし、こうした天心のこだわりを支持する仲間はたくさんいたらしく、引用に登場する大富豪、イザベラ・ガードナー夫人もその一人でした。ガードナー夫妻は自らの収集品を展示する美術館を主宰しており、ぜひ訪問したいという金子伯爵からの申し出に対し、上記のような「目には目を」の意趣返しを行い、日本人であることの誇りを忘れない天心への敬意を示したのです。
「郷に入りては、郷に従え」という諺があるように、異なる文化を積極的に迎え入れる姿勢は確かに有用です。ただ、どんなときにもブレない軸は必要であり、天心が西洋文化に親しみを持ち、優れた英語力を駆使する一方で、日本人として「変わらない中心」を持ち続けたからこそ、日本の多くの文化を守ることができたのは、いうまでもないことでしょう。
前出のコヴィー博士は著書『完訳 7つの習慣 人格主義の回復』(キングベアー出版)において、変わらない中心を持ち続けることの大切さを、ミッション・ステートメントの項で以下のように述べています。
「自分の中に変わらない中心があってこそ、人は変化に耐えられる。変化に対応する能力を高める鍵は、自分が誰なのか、何を目指しているのか、何を大切にしているのかを明確に意識することである」
日本人としての譲れないこだわり、ある種の使命感を持ち続けたからこそ、天心の才能やスキルはフルに活用され、より輝いたといえそうです。
我々も今一度、自らのミッションを明確にし、ステートメントとして自分の中に持つこと、そしてそれらを日々意識しながら動くことを肝に銘じたいものです。そうした生き方が「結果を変えていく」ことに、今昔の違いはないはずです。
(参考:『岡倉天心物語』、 新井恵美子著、神奈川新聞社)