いまでこそフランス料理は日本にいながらにして全国各地どんなところでも、ましてや一般食卓でも食すことができますが、戦前・戦時中はもちろんのこと、高度経済成長の日本において、フランス料理は現在の日本のように口にすることができるものではありませんでした。フランス料理を日本に伝播した人物のひとりとして必ず名の挙がる村上信夫(1921-2005)の人生は、波乱万丈そのものでした。彼が心がけた原理原則とはどのようなものだったのでしょうか。
●鍋磨きから道が開けた
鍋の内側をきれいにしておくのは料理人の基本的な心得のーつだが、時間を惜しんで外側はあまり磨かないから、料理の染みが頑固にこびりついている。私は、休憩時間に磨き始めた。ほとんどが「あか鍋」と呼ぶ、重い銅鍋だ。ブラシで一生懸命こすってもなかなか落ちないからかなりの重労働になる。午後の休憩時間に休みたいのを我慢して、ニカ月ほどかけて、各部署にある二百ぐらいの鍋をきれいにした。初めはなかなか気がつかれなかったが、徐々にきれいな鍋が増えていく。調理場にぴかぴかの鍋が目立ち始めたある日、私が洗い場で仕事に励んでいると、ソースがほんのちょっぴり残った鍋が回ってきて「あっ」と驚いた。だが、がつがつ味見をして、げんこつが飛んでくると困る。調理場をうかがい、当番のシエフを見ると、ちいさくうなずいてくれた。
現代では非効率だと感じる方も多いことと思いますが、当時のコック業界は一匹狼の集合体、つまり調理法を伝授するなど考えられないことでした。そこで洗い場に立ったコック見習いは残ったスープの味を舌に覚えこみノウハウとしたそうです。しかし先輩コックも当然企業秘密を知られるわけには行きません。彼らは塩や洗剤を先に振って洗い場担当に回したそうです。先輩たちにいかにして受け入れられるか、村上が考案した作戦は寸胴を磨き上げる方策でした。結果的に功を奏しさまざまな味を習得することに成功します。
このサクセス・ストーリーを理解することはできても、実際にこのプランを実行に移すとなると、ぞっとする方は多いかもしれません。レバレッジ、時短やアウトソーシングといったミニマムインプット・マキシマムアウトプットが一般的な考えとなった現代において、こういった回り道を現代人に求めても受け入れられないかもしれません。
「7つの習慣」を提唱した故スティーブン・R・コヴィー博士は著書『完訳 7つの習慣 人格主義の回復』(キングベアー出版)において次のように述べました。
物理的な現象であれば、「プロセスを踏む」という事実、あるいは原則は誰にでもわかるし、すんなりと受け入れられる。だが情緒的な分野や人間関係、さらには個人の人格において、プロセスを踏むという原則を理解するのは難しい。たとえ理解できても、それを受け入れ、それに従って生活するとなるとなおさら難しく、 そうそうできるものではない。だから私たちはしばしば、近道を探そうとする。成長に不可欠なプロセスの一部を省略し、時間と労力を惜しんでも、望む結果は得られるだろうと高を括ってしまうのだ。
さまざまな最適化が成されようが、原理原則は不変です。我々は常にこういったことを再認識して行動することで、個々の差別化に繋がるかもしれません。
●欲と基礎
若い料理人へのアドバイス、若い料理人に与える言葉は何か、とよく聞かれるが、私は何よりもまず、「欲を持て」と言うことにしている。そして、もうーつの助言は、「急ぐな」である。 流行に追われ、先を走りたがる若いコックが多いが、最も大事なのは基本だ。基本に尽きる。それをおろそかにして、目先の流行ばかりを追いかけていると、必ず中途半端になって、お客様に飽きられる。焦らず、慌てず、じっくりと一生懸命に勉強することだ。そして、現場を踏み、経験を重ねながら、お客様が喜ぶ料理を絶えず考え続け、工夫することが大切だ。
前述のようにプロセスの大切さを理解している村上から基礎を大切にしなさいというメッセージは、説得力があるように思います。またもうひとつの貪欲であれというアドバイスも、最終的に帝国ホテルの取締役と顧問まで上り詰めた彼の原動力が、常にもっと大きな貢献を常に追い求めていたことだと認識できるでしょう。
村上が唱える姿勢は、言うは易し、実行は困難であったりするものです。前述のコヴィー博士は著書『偉大なる選択 偉大な貢献は日常にある小さな選択から始まった』(キングベアー出版)において、次のように述べました。
積極的な生き方をする選択は、簡単そうに見えるかもしれない。そもそも、受身的な生き方のほうがいい人などいるだろうか。だが結局のところ、自分の行動だけが本当の答えなのだ。自分の人生は自分で決めたいと言いながら、いつ何をするか決定することなく、テレビの前で夜の時間を過ごしてしまう人が何と多いことか。また、仕事に関して高遠な夢や目標を持っていると言いつつ、スキル開発の責任を雇い主に委ねてしまっている人もいる。
誰もが積極的に生きたい、偉大なる貢献をしたい、そのように願うものでしょう。しかし人間は時に弱く、簡単な道に逃れようとするものです。欲を持って、自分の行動だけが答えであることを認識する。今一度我々は自分自身を見つめなおし、何がしたいのか、したかったのか、考え続けることで人生はより良い方向に進むかもしれません。
『帝国ホテル厨房物語―私の履歴書』(村上信夫著、日本経済新聞社)