小村寿太郎(1855-1911)といえば、ポーツマス講和会議(1905)の全権大使として、日露戦争を終結に導いた功績がよく知られています。
小藩、日向(宮崎県)の貧しい家に生まれた小村は、幼い頃から抜群の成績を示し、長崎、東京へと遊学のチャンスを掴みます。さらに、第1回文部省海外留学生として、米国ハーバード大学のロースクールへ留学、法律を学んで26歳のときに帰国しました。
優れた頭脳と強靭な神経を持つ小村は、地道ながらも徐々に存在感を強め、司法官から外務省に転じると、外務次官、駐米・駐露公使などを経て、外相を務めるまでに至ります。そして、ポーツマス条約締結に果たした役割により、歴史に名を残す政治家となりました。彼の人生を導いたミッションとは、どのようなものだったのでしょうか。
●社交より読書と思索の人
小村は一年遅れて来た金子賢太郎(のちに閣僚を歴任)とともに、下宿代の節約をはかって一室に起居した。(略) 金子は将来外交官になるつもりだから、夜は外出して社交を学ぼうとしたが、小村はつき合わない。夜、金子が社交から帰ると、独り天井を眺めて黙想している。そして昼間読んだ本を夜間、頭のなかで反芻して瞑想にふけっているのだと答えたという。
この小村の性格は晩年まで変わらなかった。
これは、小村がハーバード大学のロースクールで法学を学んでいた頃のエピソードです。異国の地で一途に勉学に励む姿勢は立派というほかありません。留学前、小村は東京大学の前身である大学南校で学んでいましたが、その当時も、自分は故郷を代表して東京に身を置いているとの思いから、何としても学問を習得しようとストイックなまでに精進していたようです。
小村は明治時代の人物ですが、よく似た話は現代のインドにも見られます。急速に発展が進む一方、人口が多く貧富の差も激しいインドでは、激烈な競争を勝ち抜いた猛者のみが都心部のエリート校、もしくは国費での海外留学を勝ち取ることができます。地方の村々では、コミュニティを挙げて将来のエリート候補を支援します。周囲から期待され支援を受ける分、彼らは多大なプレッシャーを引き受けなければなりません。
こうした傾向は、何もインドに限った話ではなく、これから台頭しようとする途上国では、ごく普通に起こり得ることでしょう。そういったプレッシャーをひしひしと感じながら、自ら定めたミッションを達成するため、あらゆる知識を貪欲に吸収していったのが小村でした。常に自らのミッションを意識していたその思いの強さは、帰国後、外交の場において発揮されていきます。
●あえて負け戦の処理を引き受ける
日本側の代表も、表向き戦勝者であっても内情の苦しいことは上層部では誰もがわかっていたので、すすんで引き受ける者はいなかった。伊藤博文は固辞して受けず、小村となった。 小村もまた、七月八日に「万歳、万歳」の歓呼の声のなか新橋駅を発つときに、「帰ってくるときは人気はまるで反対でしょう」と語り、随員の山座も、「あの万歳の声が帰ったときに馬鹿野郎くらいですめばけっこうでしょう」といっている。(略) 小村帰朝の際の国民的反発は、誰も彼もが織り込みずみのことであった。
これは、小村がポーツマス講和会議に出発するときのいきさつです。
日本は日露戦争における日本海海戦で大勝利を収めたものの、すでに兵力は底を尽き、「一兵たりとも無駄にできない」状況でした。これに対し、露軍は内地の戦力を温存していたため、政府内では、日本に有利な講和条件を引き出すことは不可能という暗黙の認識がありました。いわば、この講和会議に出向くこと自体が負け戦を意味していたのです。
案の定、日本はロシアから戦争賠償金を引き出すことができませんでしたが、ポーツマス条約によってロシアが満州・朝鮮からの撤兵を呑んだため、なんとか戦勝国としての対面だけは保つことができました。しかしこの結果は、増税などによって長らく耐乏生活を強いられてきた国民には受け入れがたく、日比谷焼打事件などの暴動が起きています。
なぜ小村は、なかなか引き受け手がいなかったというポーツマス講和会議の全権大使を引き受け、この負け戦に赴いたのでしょうか。
これに関してはさまざまな憶測が可能です。ただ、小村は一刻も早く日露戦争を終わらせなければならないというミッションに対し、熱い思いがあったのではないでしょうか。国や国民の被害を最小限に食い止めるには、ずるずると政治的な駆け引きを繰り広げている場合ではないことを看破し、締結後、自らに降りかかるであろう国民からの批判も覚悟の上で、負け戦の交渉役をあえて引き受けたものと思われます。
スティーブン・R・コヴィー博士は、自身のミッションを明文化したものをミッション・ステートメントと呼び、その尊さを「個人の憲法」に匹敵するものであると語っています。
誰もが、自分の意思によって自らの憲法を定め、それに従って生きていく権利を持っています。周囲の反応はどうあろうと、自ら定めたミッションの達成に向けて真摯に行動しているとき、その人の中に迷いやブレの入り込む余地は存在しないのではないでしょうか。
私たちも、今一度内なる声に耳を傾け、自らのミッション・ステートメントをさらに研ぎ澄ませていくことで、今以上に大きな貢献を果たせるようになるかもしれません。
(参考:『小村寿太郎とその時代』、岡崎久彦著、PHP研究所)