イザベラ・バード(1831-1904)は19世紀に活躍した英国の女性旅行家です。インターネットはおろか鉄道などのインフラが十分に発達していなかったこの時代、彼女のような女性旅行家の存在は非常に珍しいものでした。
40代後半になったイザベラは明治初期の日本を訪れ、何ヵ月もかけて全国津々浦々を回りました。その経験をまとめた紀行文“Unbeaten Tracks in Japan”は、西洋人の視点で当時の日本の様子を記した貴重な資料として、今なお高く評価されています。
彼女はどのような原則をもって、未知の国を訪ね歩くこの行程に臨んだのでしょうか。
●困難を楽しむ
イザベラの旅は、馬の質と地形に大きく左右された。しかし、事がうまく運ばなかったときでも、彼女はむしろ意気軒昂になり、風景の美しさを堪能した。
前述の紀行文“Unbeaten Tracks in Japan”の「unbeaten」とは未踏という意味です。実際、イザベラは都市部よりも山村を好んで回ったようで、この表現は決して誇張ではなかったのかもしれません。
同行したのは通訳兼ガイドの伊藤鶴吉。後にわが国の通訳業発展に大きな役割を果たす人物です。この鶴吉とたった二人、来る日も来る日も細く険しい山道を突き進んで行った彼女は、行く先々でその外見や西洋人であることを珍しがられることに、かなりのストレスを感じていたようです。
しかし、上記の引用を見る限り、そういった困難や不自由さを厭うのではなく、興味深く受け止め、むしろ楽しんでいたような節があります。
ここで思い出されるのが、故スティーブン・R・コヴィー博士が『7つの習慣 成功には原則があった!』(キングベアー出版)に残した以下の言葉です。
「これまで人々に最も強い影響を与えたと思えるテーマ、話題あるいは論点、人々の心の奥底に最も響いた卓越した見識、状況にかかわらず最も実際的で、的確で時宜を得た理念は何だったかと訊ねられたら、私は寸分の迷いもなく、絶対的な確信をもって即答できる。『私たち人間には選択の自由がある』という考え方だと」
日本に来ることを自ら選択したとはいえ、英国女性としての日常や常識とは掛け離れた状況に終始さらされていたわけですから、イザベラがネガティブな気持ちになったとしても不思議ではありません。しかし、好奇心旺盛な彼女は、自身に与えられた選択の自由を行使して、「楽しむこと」を選び、また実践したのです。
●先入観を捨てる
英国人たちは(そのほとんどは開港場の外に出たことがなかったのだが)、「パン、バター、牛肉、豚肉、鳥肉、コーヒー、ワイン、ビールは手に入らない」と、自信ありげに語った。日本で手に入る食料は、「米とお茶と卵、そしてたまに新鮮な野菜」(それらがいわゆる日本食だと言う)で、「まずくて、野菜嫌いにさせる」と言うのだった。イザベラはこうした助言はすべて無視することにし、(略)「現地で手に入る食料」で生活したいと思ったのである。
当時の日本では、外国の情報はおろか、国内の地域の細かな情報すら入手することは不可能でした。そんな中、イザベラは周囲からの猛反対を気にも留めず、食料に関しては「そこで手に入るものをありがたくいただく」というスタンスを貫きました。
そのようにしなければ、本当の意味でその地域を知ることはできないと考えたのかもしれません。アジアの辺境に位置する国という先入観を捨て、未知で未開の地に真正面から素手でぶつかっていく気概があればこそ、彼女の旅行記は多くの人の心を掴み、資料としての価値を持ち続けているのです。
前述のコヴィー博士は、同じく『7つの習慣 成功には原則があった!』の中で、先入観について次のように述べています。
「自分は物事をあるがままに見ている、自分は客観的な人間だ、と誰しも思うものである。しかし実際はそうではない。私たちは世界をあるがままに見ているのではなく、自分なりに見ているのである。条件づけられた自分の目を通して見ているのだ」
生まれ育った環境や置かれた状況によって、各々が「自分の知っていることが常識」「これが当たり前」という先入観を持つことは避けられません。大切なのは、そのことにどこで気がつき、どのように修正を図るか、ということです。
玉石混淆の情報が溢れ返り、日進月歩でテクノロジーが発達し続ける今だからこそ、かつてイザベラがそうしたように、自身の先入観のありようを自覚し、先方の考える常識や当たり前を虚心坦懐に受け入れることが大切になってきます。そのうえで、客観的かつ正確な情報を集め、自分なりに整理・分析する「見極め力」が必要とされているのではないでしょうか。
(参考:『イザベラ・バード 旅の生涯』、オリーヴ・チェックランド著、川勝貴美訳、日本経済評論社)