今回紹介する高田早苗(1860-1938)は、日本を代表する私立大学のひとつである早稲田大学の初代学長です。早大が現在の地位を得るまでには、創設者とされる大隈重信のみならず、さまざまな人々の貢献がありました。政治学者だった高田は、教育者だけでなく政治家、実業家としても名を馳せました。この人物の中心にはどんなものが置かれていたのか、見ていくことにしましょう。
●草創期の金銭的労苦
何分にも東京専門学校は資本も何もない学校であったから、始めは専務講師、私(高田早苗)と天野は三十円で、その外の代言人や新聞記者を兼ねている砂川・岡山・山田一郎などいう連中は十五円という有様。
それでいて、三十円の専務講師は、一週間少なくとも授業が三十時間、一カ月百二十時間を下らない。兼務の人々も、やはり、相応の時間を持たされた。
こんな風だから、銘々の手許も、終始、頗る不如意がちで、私なども学校創立以来五~六年間というものは、まるで衣服を新調したことは一度もなく、母の遺物の衣服ばかり着ていて、これがほんとの母衣(ほろ)というものだ、と、笑ったくらいである。
優秀な人材には企業や政治からのオファーがあるものですが、その道を選ばず、スタートアップ期には金銭的に苦労したと語るアントレプレナーは現代でも少なくありません。
高田にも好条件の申し出は数多くあったはずですが、それらを退けて私学の創立および運営に奔走する彼に対し、否定的な見方もあったことでしょう。それでも初志貫徹、早稲田大学の確立に尽力した高田ら創設者たちには、間違いなく、苦労の先にある明るい未来が見えていたに違いありません。
「7つの習慣」の提唱者である故スティーブン・R・コヴィー博士は、著書『完訳 7つの習慣 人格主義の回復』(キングベアー出版)において、次のように述べています。
「自分の中に変わらない中心があってこそ、人は変化に耐えられる。変化に対応する能力を高める鍵は、自分は誰なのか、何を目指しているのか、何を大切にしているのかを明確に意識することである」
高田は、後に米国第28代大統領となるウッドロウ・ウィルソンの著書を自ら翻訳し、教材として学生の指導に活用しています。同業とはいえ、当時まだ無名の政治学者だったウィルソンの本質を見抜く目が彼にはあったということでしょう。
教育面でも経営面でも心血を注いだ結果、大学運営が軌道に乗ると、高田は学長としての役割に一区切りをつけ、新たに会社を興します。彼の目にはさらに先の未来が見えていたのかもしれません。
●日清印刷株式会社の設立
自己経営の印刷所をもつ必要は、東京専門学校出版部で講義録を発行した頃から、すでに感じており、早大出版部として繁栄するにつれて、一層その必要を増してきた。そこで日清生命を創立した頃、直営の印刷所をもつことを計画し、かつて長崎新聞にいた太田雪松、文士の大鳥居弃三を、専務と常務とし、冨山房の坂本嘉治馬と有斐閣の江草斧太郎を大株主の重役とし、高田先生と市島謙吉と交友の増田義一とが相談役となって、日清印刷株式会社を設立した。
高田が興した日清印刷株式会社は、現在の大日本印刷株式会社の前身です。1907年に早大出版部の印刷部門として創立され、わずか数十年足らずで日本を代表する印刷会社へと成長しました。
早稲田大学という教育機関の成功を目指す一方で、「社会にとっての善」を探求し続け、起業というリスキーな方向に舵を切った高田の選択眼とバランス感覚には目を見張るものがあります。大きく激しい流れの中に身を置きながらも、やはり独自の視点に基づいた先見の明があったということでしょう。
このように、根底には変わらない原則を抱きながら、刻一刻と変化する情勢に対応していくスタンスを持つことの重要性は、当時も、第4次産業革命とも呼ばれる現代も、本質的には変わらないように思われます。
コンフォート・ゾーンを脱出することの大切さについては、さまざまな著名人が触れていますので、ここでは前出のコヴィー博士が提唱する、「積極的な生き方」について紹介することにしましょう。コヴィー博士は著書『偉大なる選択 偉大な貢献は、日常にある小さな選択から始まった』(キングベアー出版)において次のように述べています。
「人生は大海の波のように、さまざまな出来事が次から次へと押し寄せてくる。私たちはその日の潮の干満や流れに身を任せて漂う流木となるか、それとも自分の行動や行く先の決定に主体的な責任を果たすか日々選択している」
守りに入ることなく、「主体的な選択を果たす」ことを選択したのが高田という人物です。我々においても、これから先の人生が豊かなものとなるか、そうでないかは、どんな選択を選択するかという点にかかっているのかもしれません。
(参考:『高田早苗伝』 、京口元吉著、早稲田大学出版部)