古典に学ぶタイム・マネジメント  第18回 荘子に学ぶ

『荘子』は、中国の戦国中〜末期(西暦前四世紀末〜三世紀頃)の思想家、荘周の著作であると同時に、荘周その人自身を指す言葉でもあります。荘周の時流に超然と構えるスタイルは、「7つの習慣」においてコヴィー博士が主張する原則の尊さと類似する部分があり、後世に大きな影響を与えたことは、いうまでもありません。

その中で紹介されている全33篇の物語には、現代にも通用する部分が多くあります。

■片足こそ自由

右師は足切りの刑にあって片足をなくした男である。この右師に出会った公文軒は、思わずたずねた。

「いったいどうしたのだ、その足は? 生まれつきか、それとも刑罰にあったのか?」

 右師は答えた。

「お察しのようにおれは刑を受けた。だが、受刑もまたおれの負っている運命の一部で、人力では動かし難いことなのだ。天がおれに片足の運命を与えたまでのこと。人間の姿かたちは天与のものだ。してみればおれが片足になったのは天命で、人間の力でどうなるものでもない。

 おまえに雉(きじ)の気持がわかるだろうか。かれらは餌をあさり水を探してさんざん野山をかけまわる。なんともご苦労な話だが、それでも籠の中に飼われようとはしないのだ。たらふく食ったとて、籠の中が窮屈なことを知っているからだ。片足になってみて、おれははじめて自由とはどういうものかを悟ったよ」

さまざまな解釈ができる一文ですが、できないことを憂うだけではなく、現実を受け入れ、その上でできることに集中すること、そうすることで実はこれまでとは異なる視野を手に入れることにつながると解釈することもできるでしょう。

「7つの習慣」の中で「影響の輪/関心の輪」として紹介されているように、私たちのビジネスの世界にも、自分だけの力ではどうすることもできないことが多々あります。そうしたことを気にしすぎるあまり、自分のできることがどんどん小さくなっていくことが少なくありません。

つまり、両足が健全で自由に活用できる状態では気づくことができなかった自由に、片足を失うことで初めて気づくことができた。その経験があるからこそ、現在、片足でできることのすべてを把握することができ、それらのおかげで自分は十分に自由であるというわけです。

■「道」そのままに生きる

乾上った池に棲む魚は、泥の上に身を寄せあい、たがいのあぶくで身を濡らしあっては、わずかに生を保とうとする。だが魚たちにしてみれば、かばいあって愛に生きるより、広々とした江湖を自由に泳ぎ廻ることのほうが、はるかに望ましいに相違ない。人間にしても同じこと、秩序の枠に押しこめられ、善を称揚し悪を排斥して暮らすよりは、善悪を超越して「道」そのままに生きるほうが、はるかに好ましいはずである。(略)

われわれは、ただ人間の形を与えられたというだけで、それを喜び大切にする。だが、人間としての形はまた事物の窮まりない変化の中の一様相にすぎぬと知り、変化に身を委ねてしまえば、その喜びは果てることがなかろう。だからこそ聖人は、いっさいをあるがままにまかせて、何物をも失うことのない境地に逍遙しようとする。短命をも、長寿をも、生をも、死をも、すべてをひとしく肯定して、人々の師表と仰がれるのである。こうしてみると、万物を統括し、無窮の変化を生み出す「道」こそ、真の師というベきではないか。

 「7つの習慣」でいうところの、「価値観」と「原則」の違いとして考えることができるかもしれません。ここでいう「善悪」を「価値観」、「道」を「原則」と置き換えることができるでしょう。

 少々飛躍になるかもしれませんが、ビジネスの世界にたとえれば、善悪は「さまざまなシステムや制度」ととらえることができるかもしれません。「システムや制度」は時代とともに変わり、場合によっては状況によっても変わることがあります。

 これらを超越した「道」、つまり原則の領域でビジネスを行うことが本当の理想なのでしょう。

(参考:『荘子』、岸陽子訳、徳間書店)

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