サントス‐デュモン(1873-1932)は、ブラジル出身の発明家・飛行家です。19歳でパリに留学した後も現地に留まり、1906年、ヨーロッパで初めて動力付き航空機の飛行に成功しました。その3年前に世界で初めて有人動力飛行に成功したとされるアメリカのライト兄弟の陰に隠れ、日本ではあまり知られていませんが、航空界のパイオニアとして、ヨーロッパではその業績を高く評価されています。
デュモンの友人だった宝石商のカルティエは、飛行中に懐中時計を取り出す暇がないという友人のために、世界で初めての紳士用腕時計「サントス(・ドゥモワゼル)」をデザインし、その名を冠したといわれています(「ドゥモワゼル」は、デュモンの飛行船の名前)。
偉大なる足跡を残した背景には、どのような原則が存在したのでしょうか。
●特許なんかいらない
パリに帰着してすぐサントス‐デュモンは気づいたのだが、仲間の飛行船乗りたちは、彼の留守中に遊んでいたわけではなかった。彼の快挙に歓声をあげながらも、それを凌駕しようという気を起こし、しばしばサントス‐デュモン方式を利用‐あるいは誤用‐していたのである。みずから編みだした方式の特許をひとつも取らないことで、サントス‐デュモンは有名だった。
これはデュモンが飛行船を用いた空中遊泳を初めてやってのけ、しばらくパリを離れた後に戻ってきた際の出来事です。彼は後年、インタビューでこのように答えています。
「私は特許を1つも持っていない。胸を張ってそう言える」
彼はなぜ特許を取らなかったのでしょうか。その頃の特許制度が現代のように整っていたかどうかはわかりませんが、それなりの収入源にはなったはずなのに。
理由の1つとして考えられるのは、安全をはじめとした「技術革新への強い思い」です。引用部に「あるいは誤用」とあるように、当時は多くの人々が飛行実験に挑戦しては失敗し、命を落としていました。しかし、デュモンの飛行実験は他と比べると安定しており、非常に安全だったといわれています。おそらく彼は、私利私欲よりも、自ら開発した技術のすべてをオープンにすることで、航空技術そのもののさらなる向上を選択したのでしょう。
こうした意図が彼の行動の根底にあったことは、航空界の発展に少なからず影響を与えたものと思われます。その結果、デュモンは業界のみならず、時代をも牽引したリーダーとなり得たといっても過言ではないでしょう。
「7つの習慣」の提唱者であるスティーブン・R・コヴィー博士は、自身の著書『7つの習慣 原則中心リーダーシップ』(キングベアー出版)の中で、リーダーシップについて、次のように言及しています。
「自分自身を尊重しながらも、高い目的と原則に自分を従わせることは、崇高な人間性におけるふたつの矛盾した側面であり、有効なリーダーシップの基礎を成すものである」
その矛盾を征することは生半可な努力でかなうものではないでしょう。しかしデュモンはそれをやってのけたのです。
子どもたち(編注:デュモン幼少期の遊び仲間を指す)全員でテーブルをかこみ、リーダーが大声で「鳩は飛ぶ! めんどりは飛ぶ! カラスは飛ぶ! 蜜蜂は飛ぶ!」などと言う。そしてひとつ叫ぶたびに、われわれは指を立てることになっていた。だがときおり、リーダーは「犬は飛ぶ! 狐は飛ぶ!」というように、飛べないものを出して、ひっかけようとする。そのとき指を立てた者は罰金を払わされた。さて、わたしの遊び仲間は、リーダーが「人間は飛ぶ!」と叫ぶと、かならずウィンクをし、からかうようにわたしに微笑みかけた。そして、罰金を払うのを頑として拒んだ。彼らが笑えば笑うほど、わたしは嬉しくなった。いつの日か笑うのはこちらのほうだ、と思いながら。
●パラダイムを疑う
今でこそ、我々は当たり前のように航空機やヘリコプターで空を移動します。それは、重力をはじめとした科学法則に人類が立ち向かい、その努力と戦いの末にようやく実現したテクノロジーの勝利といえるでしょう。そして、人類が成し遂げてきたこのような技術革新は、いずれも「パラダイムを疑う」ところからのスタートであったはずです。上の引用からもわかるように、デュモンが疑ったのは、人間は空を飛ぶことができないというパラダイムでした。
コヴィー博士は「正しくても間違っていても、私たちのパラダイムこそが私たちの行動や態度の源であり、やがては人間関係のあり方まで決めてしまうものである」と指摘しています。それほどまでに、我々にとって思い込みのパラダイムは強力であり、正体を目で見ることが難しいだけに厄介なものだというわけです。
激動の時代はさらに混迷を極め、とどまることを知りません。21世紀の初めに、誰がiPhoneの登場を予測したでしょう。逆に考えれば、周囲のパラダイムを今一度疑うことで、誰もが新たな突破口を得られる可能性を持っているといえるのかもしれません。
(参考:『空飛ぶ男 サントス‐デュモン』、ナンシー・ウィンターズ著、忠平美幸訳、草思社)