アダム・スミスの『国富論』で示された『見えざる手』の考え方は、現代においても経済学の礎として扱われている概念ですが、実はバーナード・マンデヴィル(1670-1733)の『蜂の寓話 私悪すなわち公益』(1705年発表)において発表された考えにヒントを得たものであることはあまり知られていません。バーナードは、『蜂の寓話』において、一般的に悪とされる欲こそが経済を支えているという、当時では挑戦的で風刺的なアプローチを発表し、後年前述のアダム・スミスをはじめとした経済学者に指示されたものの、当時の社会にはなかなか受け入れられることはありませんでした。
●折り合いを付けることの難しさ
政治の抑制がなければ、あらゆる種類の動物のなかで、人間ほど長いあいだ大勢でうまく折り合っていくことがむずかしいものはない。ところが、人間に備わっている性質は、その善悪の判断はひかえることにして、ひとり人間だけを社会的な動物にすることができる種類のものである。しかし、人間はこうかつなだけでなく、並はずれて利己的で強情な動物なので、強い力でいかに押えつけても、力だけでは従順にさせ、彼にできるような向上をうけいれさせることは望めない。
なぜ人間は折り合いをつけることが難しいのでしょうか。人間は考え、意思疎通を行いことができます。これらさまざまな要素が差別化に繋がり、他の動物に比べ優位な立場に立つことができるのでしょう。そのような競争環境に置かれながらも、暴力で解決を図らないのはバーナードが言うように政治による力の抑制が働いているのかもしれません。
なぜそのような競争環境に置かれるのでしょうか。さまざまな理由が考えられますが、周囲からの影響を受けたためである可能性が高く考えられます。「7つの習慣」を提唱した故スティーブン・R・コヴィー博士は著書『原則中心リーダーシップ』(キングベアー出版)において次のように述べました。
ほとんどの人は、欠乏マインドによって深く脚本づけを受けている。欠乏マインドとは人生を大きさの決まったパイと見て、誰かが大きなひと切れを取ると、ほかの人の取り分が少なくなるというものである。それは人生をゼロサム・ゲームと見るパラダイムである。欠乏マインドを持つ人は、名誉、 評判、権力、利益などを人と分かち合うことがとても難しい。
自身のパラダイムが豊かさマインドか、はたまた欠乏マインドか。周囲の環境や人物の影響を受けて生成されたパラダイムを今一度見つめなおし客観性を持つことは、有用かもしれません。
●人間の現実
自分のことを理解している者がごくまれにしかいない最大の理由のーつは、たいていの著述家が、人間はどうあるべきかということはいつも説いているくせに、人間の現実にあるがままの状態についてのべようなどと頭を悩ますことが、ほとんどないためである。
こちらもさまざまな考え方があることと思いますが、ひとつには、バーナードの言う「どうあるべきか」という問いに対し、答えられるのは結局のところ自分自身であり、「著述家」にアドバイスを求めたところで意義が薄いということでしょう。
前述の故コヴィー博士は、「どこに行くか」を定める行為に難しさがあると述べます。「どこに行くか」はいわば価値観、それらは原則に基づいたものである必要があります。著書『第8の習慣 「効果」から「偉大」へ』(キングベアー出版)からの引用です。
「正しい方向」がどこかを見定め、すべてをその方向に向けることこそ私たちの主要な課題となる。そうしなければ必然的に好ましくない結果を招くことになる。なぜならば、私たちは価値観に基づいて行動するが、その結果を左右するのは価値観ではなく原則だからである。
バーナードの時代には「著述家」がそういったポジションだったのかもしれませんが、我々の生きる現代において、人物のみならずインターネット、テレビ番組、エッセーや書籍といったさまざまなメディアから生きる方向性についてヒントをもらうことができます。しかし最終的にその方向性が正しいものであるかどうかは自分自身の判断に掛かっているのでしょう。
『蜂の寓話 私悪すなわち公益』(バーナード・マンデヴィル著、泉谷治訳、法政大学出版局)