フローレンス・ナイチンゲール(1820-1910)は、クリミア戦争での献身的な看護によって「クリミアの天使」と呼ばれ、また、衛生面に着目した「近代看護教育の母」としても、伝記でもおなじみの人物です。感染症による患者の死亡率を著しく下げるなど、医療衛生における彼女独自のスタンスは、統計に基づくものであったといわれ、最近ではその観点からも再び注目を集めるようになっています。強い信念と人並み外れた実行力。ナイチンゲールのキャリアをひもといていくことにしましょう。
彼女は食事を中断したり、時には抜いたりしてまで働いていた。半島からの船が着き、傷病兵が多数運び込まれた日などは、二十四時間靴を脱ぐことがなかった。
次々と包帯を巻いて八時間ひざまずき通したこともあった。特に、重症の患者には、彼女が必ず付き添い、最期は彼女がほとんど看取った。患者を一人では死なせないと心に決めていたのである。
●決して患者を一人では死なせない
30代半ば、ナイチンゲールはクリミア戦争に看護師として従軍しました。その際の壮絶な献身ぶりは上記の通りです。
当時、看護師という職業は、医師の手伝いや患者の世話係といった側面が強く、これといった専門知識は不要とされていました。そうした中で「病院内を衛生的に保つべき」など、さまざまなアイデアを提案、実施するのは、非常に困難なことであったはずです。
事実、女性の意見ということで、相手にされないこともたびたびだったようですが、それにもかかわらず、ナイチンゲールは主体性を発揮し、医療看護の世界に偉大な足跡を残しました。
いったい何が、それを可能にしたのでしょうか。
まず、彼女の行動には自らの仕事に対する覚悟というものが見受けられます。そして、上記の描写にもあるように、「決して患者を一人では死なせない」という強い決意がありました。それらがエンジンとなって彼女を衝き動かしていたことは想像に難くありません。
●自身のなすべき貢献を自覚する
二十四歳を目前にしたフローレンスは、ようやく何をすべきか分かったような気がした。それは病人の介護だった。
近隣の貧しい小屋の、とりわけ病人や赤ん坊が彼女の脳裡に焼きついていた。彼女は、病人や赤ん坊のいる小屋をただ見舞うだけではなく、手を下して何やかやと世話をしたが、それがいつも適切だった。また、身内や友人の間に病人や赤ん坊がいるとその世話をもしばしば買って出て、上手にやってのけた。
努めよう、達成目的はそこにあるとひらめいたのである。看護するということは、「あなたも行って(よきサマリア人と)同じようにしなさい」、という御言葉にまぎれもなく従うことだった。心を尽くしてキリストとの合一を得るように努めよう、達成目的はそこにあるとひらめいたのである。
ナイチンゲールはイギリスの裕福な上流階級に生まれました。夏は避暑地、冬には避寒地へと赴き、社交シーズンはロンドンでホテル暮らし。非常に豊かな生活を送っていましたが、本人が自著で語るには、そうした状況を心地よく感じていたわけではないようです。
自分の欲すること、進むべき道がよくわからなかった少女時代、焦燥感も手伝ってか、語学、数学、ギリシャ哲学など、あらゆるジャンルの勉学を貪るように修めたナイチンゲールは、高い教養と学識を持つ女性に育ちました。そして、いろいろ考え抜いた結果、看護の道こそが自らの為すべき貢献であることを自覚するに至るのです。
後に彼女は、2つの要素、すなわち「才能」と「内なる声」によって、その道へと導かれたと語っていますが、興味深いのは、故スティーブン・R・コヴィー博士もまた、自著『第八の習慣 「効果」から「偉大」へ』(キングベアー出版)において、同様の指摘をしている点です。コヴィー博士は、その本の中で次のように述べています。
「あなたの才能を生かし、情熱に火をつけてくれる仕事に取り組むとき、しかもその仕事によって満たされる世界的なニーズにあなたの良心が引きつけられるのなら、そこにあなたのボイス(内なる声)がある」
その結果、ナイチンゲールが人類に果たした貢献の偉大さについては、ここで繰り返すまでもないでしょう。
新しい技術や多様な生き方が模索される今、就業に対する意識も大きな転換期を迎えています。自分は本当に内なる声に従った仕事をしているか。果たしてそこにニーズは存在するのか。今一度再考することによって、日々の仕事の質も大きく変わってくるのではないでしょうか。
(参考:『ナイチンゲール』、小玉香津子著、清水書院)