今回取り上げるのは栃木県出身の明治の政治家・田中正造(1841-1913)です。日本初の公害事件とされる「足尾銅山鉱毒事件」を通して歴史の教科書にも名を連ねている人物です。鉱毒に苦しむ市民の声に耳を傾けない政府に業を煮やし、明治天皇へ被害状況を直訴するなど、実行力に優れ、市民に寄り添った政治家として知られています。そうした彼の政治活動を支えた原則とはどのようなものだったのか、探究してみることにしましょう。
●百姓にも尊厳がある
正造が最も怒りを覚えたのは、筆頭用人の陰険な画策ぶりもあったが、村の慣習、自治といった小なりとはいえ重要な問題にまで、領主の使用人が権力を振りかざして踏み込むことにあった。(略)そんな百姓たちにも知恵があり、また尊厳もあり、村を村として成り立たせるための古くからの慣習があり自治もあろうというものだ。その最も大事な自治を破壊されようとしているのを黙って見ていられようか、たとえ領主といえども、村の自治、百姓の尊厳を損なうことは許されない。
引用文中の「用人」とは、主家と百姓を取り持つ、いわば役人の出先機関のような存在です。正造は17歳の頃から村の名主として、用人と百姓の間を取り持つ役割を果たしており、彼自身も農作業に従事しながら、市民から年貢を取り立てる業務にも携わっていました。
ある用人が百姓の自治にまで口を出すようになり、怒りを覚えた彼は反発して正当な要求を行いますが、権力に打ち勝つことはできず、1年余りの牢獄生活を送る羽目になりました。
このように役人が百姓を見下して個人の尊厳を認めない身分格差、悪しき権力構造にも、江戸幕府が終焉を迎えるに至った原因の一端がうかがわれます。
「7つの習慣」の提唱者である故スティーブン・R・コヴィー博士は、著書『第八の習慣 「効果」から「偉大」へ』(キングベアー出版)の中で、現代の会社組織について以下のような指摘をしています。
「モノのように扱われると、人はどんな反応を見せるだろう? リーダーシップを発揮する選択肢などあり得ないと思い始めるはずだ。ほとんどの人は、リーダーシップは特定の地位に付随するものだと思い、その結果自分がリーダーになることなど想像すらできなくなる」
江戸時代の身分制度こそ過去のものとなりましたが、現代においても役員と一般社員の立場は大違いであり、権力者の恣意によって組織や従業員の行く末が左右される環境は相変わらずです。そのような力関係の先にあるものは、組織の分裂、そして消滅であることは言うまでもないでしょう。
●「お願いがございます」
明治三十四年(一九〇一)十二月十日、午前十一時過ぎ。帝国議会開院式に臨んだ天皇が式を終えて馬車で帰還の途についたとき、居並ぶ拝観者のなかから直訴状を手にした田中正造が飛び出した。黒の綿服、黒の袴、足袋はだしの正造は、「お願いがございます」と叫びながら天皇の馬車に向かって駆けようとした。が、足がもつれて転んでしまい、そこへ走ってきた警官にその場で取り押さえられてしまったのである。同時にこのとき、警護の近衛騎兵が抜剣して正造の方へ突進しようとしたが、急激なあまりに落馬してしまった。すべて一瞬の出来事で、天皇の馬車は何ごともなかったかのように遠ざかって行った。
こうして正造の直訴は失敗に終わったのである。
その後、田中は区会議員、県議会議員、県会議長などを経て、衆議院議員になり、1890年、冒頭でも触れた足尾銅山鉱毒事件に遭遇します。渡良瀬川の大洪水によって上流にある足尾銅山から鉱毒が流れ出し、周辺地域に多くの害をもたらしている現象を知った彼は、実際に視察を行い、鉱毒被害を訴える政治活動を展開します。被害者の市民たちによる鉱毒反対運動も激化しましたが、芳しい成果は得られませんでした。
そして10年余りが過ぎ、業を煮やした田中が議員職を辞し、命を賭してとった行動が、天皇への直訴だったのです。引用にもあるように直訴自体は失敗に終わりましたが、この件が読売新聞をはじめとする多くの新聞で報じられたことから全国各地で大反響を呼び、義捐金や救援物資が届けられるようになりました。さらに、キリスト教や仏教団体が宗教間の垣根を越えてさまざまな救援団体を現地に送り、医師による救援活動なども行われるようになりました。
現場で拘束されたものの即日釈放となった田中は、直訴失敗により失意のどん底に突き落とされたようですが、結果として日本初の公害事件は全国民の知るところとなったのです。
前出のコヴィー博士は前出の著書『第八の習慣 「効果」から「偉大」へ』において、「偉大さ」の要件を以下のように説明しています。
「この新しい時代に私たちに求められているのは何かといえば、それは偉大さである。別の言い方をすれば、情熱を持って実行すること、課題を達成すること、そして大いなる貢献が求められている。いずれも効果性とは違った局面の問題であり、次元の異なる要件だ」
政治家であり、一時は『栃木新聞』の編集長を務めたこともある田中にはさまざまな人的ネットワークがあり、あらゆるリソースの活用やクリティカルな手段を模索したはずです。しかし彼が最終的にとったのは、自らの命を賭けて天皇に直訴するという愚直な方法でした。
そして、鉱毒反対運動などに自身の財産をつぎ込み、事件の後は苦難の道を歩んだ彼は、ほぼ無一文の状態で亡くなったといわれています(享年71歳)。
この足尾銅山鉱毒事件が後世の教科書で紹介されるほどのインパクトを持つに至ったのには、田中という人間の情熱の濃さ、すなわち彼個人の偉大さによる部分が大きかったのかもしれません。
(参考:『評伝 田中正造』、大澤明男著 幹書房)